Saturday, May 26, 2012

自分愛護と動物愛護



3.11.以降、被曝の危険性をずっと訴えていらっしゃるジャーナリスト木下黄太さんの
ブログの今日の記事がとってもいいな、と思ったので転載します。

私がいいなと思ったのは、放射能被曝云々もありますが、
ここに書かれていることは、
肉食、ビーガンにも繋がっていくのではと思ったからです。
もちろん木下さんにはそんな意図など全くなく、
私の勝手なこじつけ解釈なのですが。

もし私たちがきちんと自分の命を重視して、死が怖い、生きたい、と真剣に思ったら、
自分の命を守りたい、それが生物として一番大切なことだと気づいたら、、、
他の生物の命も軽視できなくなると思うのです。

もちろん自分が生きるためには他の生物(植物含め)を食べないといけない、
だから生きるために肉を食べるんだー、という人もいるかもしれないけれど。

ビーガンになってから今まで、どうしてこの世の中は動物の命をこんなにも
軽々しく粗末に扱うのだろうかと考えていて、その原因はいろいろあるのだろうけれど、
私たち自らが生に執着していないことが、
もしかしたら根っこにあるのかもしれないな、とふと思ったのでした。


 喉が痛む中、新幹線で講演の会場に向かう途中に書いています。

 僕がこの一年あまりの中で、いろんなことをしてきて、いろんな人々とすれ違い、いろんな人々と話してきました。

 おそらく見も知らぬ人たちと、これだけ多く話すことになるとは、僕の人生でも、やはり他には考えられない経験で
す。

 こうした経験を通して、ずっと疑問があります。

 多くの人々が、あまり自分の命を守るということに、そんなに重きを置いていないのです。

 というか、僕に語らいかける人々の話を聞いていても、みなさん、ご自身の都合や症状のお話はされるのですが、
 自分の命をどう守るのかということについて、そんなに重視されていない。

 あんまり自分の命のことを考えていない。

 これは老若男女問わず、似たような状態です。

 僕はなんなんだろうと考えています

 「死が怖い」という感情はあると思います。「病は嫌だ」という感情も。しかし、命を守るという積極的な問いかけが少ない感じがしています。

 もうちょっと書くと「生きたい」という内面の強いエネルギーを感じられる人がほとんどいない。

 これは、本当に不思議なことです。

 おかあさんたちが、まだ放射能を防御することに一生懸命なのは、まだこどもの命を守りたいという熱意はあるのです。

 こどもに対しては、このことを意識しているほとんどのお母さんの思いはあると思います。

 しかし、それも自分には向いていない感じを受けます。母という役割の義務のため、子に意識を集中している。しかし、自分に対しては薄い。

 生物として、さらに人としても、自分の命への思いが本当は希薄なことを特に感じます。

 「放射能防御」「健康被害からの回避」ということを強く言うと、僕が生に執着していることをおかしいというような言説があるようです。

 生きるという事や命ということに、人間がこだわらなくなったことの方が僕には本質的におかしいと思います。

 もし、命や生きていくことに拘らないなら、あなたたちが何に拘っているのかという事です。

 家、ローン、金銭、所得、地位、会社、肩書、ステイタス、世間体、仕事、対人関係。大体こんな話ではないでしょうか。

 こうしたものは個別にはいろんな問題があるとは思います。

 でも、僕からみれば「命を守る」「生きていく」ことよりも大切なことはほとんどありません。

 僕の考えが、今の日本人の多くの人には、まだ「奇怪な話」と受け止められています。

 多くの日本人たちは、自分の命も守る意識も強くなく、生きていくことに敏感ではないのだろうと僕は思います。

 これは、安定的な社会が数十年を経過し、その体制が固まった中で、循環している澱みのようなものだと考えます。

 新しい流れをいろんな形でおこすことにためらいがあり、そのまま状況に流されていくことしか、多くは解決策を持たないのだろうと理解しています。

 その中で澱んでいれば生の実感は希薄になり、命を守るということそのものが、ドンキホーテの所業のように見えてくるのかもしれません。

 命を守ること=病院にお金を払うことやより有名な病院に行くこと。こうした図式だけの人も多いと思います。

 相談の電話を聞いているとさらに強く感じます。
 どうしても自分の命を守りたい、生きるという強い思いがないと、子供たちの命も守れるとは僕は思えません。大切な人の命も守れません。

 自分を守らない人間が、他人を守れるレベルに達しているのかは、根本的に難しいと僕には思います。
 命を守ることを我執という言い方をして、批判する愚かな人々もいます。

 こういう人々がすべての欲を捨てて、無欲になって、生きているのであれば、まだ議論の余地がありますが、大概の場合において、他の日常に絡め捕られているだけです。話にもなりません。生きることよりも、緩やかな日常だと思い込み、ただ日々をごまかしているだけです。

 自分の命に拘らず、子供のような大切な人の命に拘らず、違うものに固執しているだけです。

 意識が浮揚することがあります。命や生きることを実感できない場合。離人症ほどひどくはないかもしれませんが、非常に軽度にはそれに近い状態です。こうした放射性物質の危険が存在するエリアでは、その危険そのものを直視したくないですし、ごまかして過ごしたいという深層心理は当然働きます。こうした中で、おこりやすいのが自分の中での意識を、身体から少し離してしまう在り様です。すこし浮揚している。その方が気持ち良いから。意識と体がゆるやかにしかつながっていないので、体の変化が微細には意識されなくなります。意識しにくくなります。

 被曝エリアである関東・南東北で、こうした無意識のスタンスを、潜在下でとっている人は多いと僕は思います。だから、いろんな微細なシグナルを見落とす可能性も強まる構図です。

 浮揚した意識をきちんと自分の身体性に引き戻すこと、そして微細な自分の肉体の変化を確認すること、自分が何者であるのかを確認すること、それゆえに、自分の命を守り、自分は生きていくのだという事。自分が生きていくことは、さらに、子供は当然として、自分にとって、大切な人が生きていくことも必要なのだと、はっきりと自覚すること。子供も含めて、他者との本質的な関係の構築は、その相互認証・相互関係でしかありえないということ。勿論、自分が生きるという事と密接に連関しているということ。自分が生きることは、大切な人も生きること。自分の命を守ることは、大切な人の命も守ること。

 それを支えあうのが、時に「家族」であったり、また「社会」、そして本来は「国家」であるべきはずという事。

 僕はこうしたことを考えながら移動しています。それでも、多くの人に書いている意味が伝わらないだろうなとも思っています。

No comments:

Post a Comment