Tuesday, May 18, 2010

中谷美紀


女優の中谷美紀さんが書かれた『インド旅行記2』(幻冬舎)の中から
「私が肉を食べないわけ」と「もう肉は食べられない!」の章をご紹介します。

「10月1日 私が肉を食べないわけ」から抜粋

 そういえば、北インド旅行をきっかけに興味本位で始めたベジタリアンも未だに続
いている。もちろん100パーセント完璧かといわれれば、かつお出汁を使用したも
のを口にせざるを得ないこともあるけれど、基本的には肉も魚も卵も食べなくなってか
らは、野菜をより深く味わうようになり、もう動物性たんぱく質は必要でないかもし
れないくらいに、満足しているし、何よりも食事の体が軽いのがいい。消化が楽な
分、身も心も軽く感じる。
 ピーター・コックス著『ぼくが肉を食べないわけ』をこれもまた興味本位で読んで
しまったことも、頑にベジタリアンを続ける理由になった。著者の言う、生きとし
生けるもの全てを慈しむ気持ちも大事なのかもしれないけれど、個人的にツボにはま
ったのは、劣悪な飼育環境で虐げながら育った家畜たちが、尊厳などまるでない
死に際して、極度の恐怖と苦痛からストレスホルモンを分泌し、それが肉片にも残留
するという話だった。
 ストレスホルモン満載の肉なんか食べたら、ただでさえストレスの多い人間がさら
にイライラするのも必至かもしれない。飼料だって、肉骨粉が与えられ続けたようだ
し、病気の予防にと、抗生物質などの薬まみれになった肉は、もう、食べたくない。
食肉産業の方々には申し訳ないけれど、これが今のところ、私の選択した道なのだか
ら仕方がない。


「10月9日 もう肉は食べられない」から抜粋

 朝食を摂ろうと帰る途中、ホテルの2、3メートル手前の道端で、驚くような光景
を目にした。人通りの多い往来で、屋根もなく広げた店先でヤギが首を掻き切られ、
ドクドクと鮮血を流していたのであった。
 歩道を占領して冷蔵施設もないままの青空ミートマーケットでは、籠に入ったニワ
トリと、ロープでつながれたヤギがその場で解体され、売られていくらしく、地面に横
たわったヤギがひととおり血を流し終えると、裸足の男性が二人がかりで皮を剥ぎ始
めた。
 目を見張る光景に思わず立ち止まることとなったが、鮮やかな手さばきはスピード
を緩めることなく、足を切り落とし、然るべき箇所に切り込みを入れ、洋服を脱がす
かのごとくスルスルと毛皮を引っ張っていく。気の毒なヤギは途中で逆さづりにされ、
皮と肉の間に水を注がれながら、ついに頭と一緒に全ての皮が剥ぎ取られ、丸裸にな
ってしまった。皮と頭を地面に投げ捨てると、二人の男性は代わる代わるナイフを手
にして、内臓を取り出し、パートごとに肉を切り分けていく。
 通りすがりの客は解体しているそばからその肉を買っていき、匂いを嗅ぎつけたカ
ラスがやってきては、地面に残る赤い血を舐めていた。以前は何のためらいもなく食
べていた肉がこうした過程を経て食卓へ上がることを目の当たりにするのは、とてもシ
ョッキングで、「本当に、もう、肉は、食べられない!」と思った。
 動物愛護の精神はそれほどなく、生態系の一環として動物は慈しむべきものであ
っても、ペットや動物園にはさほど興味がなかったし、ましてや肉だろうが魚だろう
が、人間は食べたいものを自由に食べる権利があると思っていたのにもかかわらず、ヤ
ギの解体劇は食べるという行為の根源を揺るがすような、もの凄い衝撃的な出来事だ
った。当然のことながら野生の肉食動物はこうした動物を貪るけれど、人間が果たし
て同じように動物を食べる必要があるのだろうか?自ら生け捕り解体することなく、
食肉業者に任せきりでも動物を食べる権利があるのだろうか?
 この手の話には、やれ出汁はどうなのかとか、皮革製品はどうなのかとか、細かく
挙げていったらきりがないし、各々の宗教によっても見解は異なるので、その是非に
ついて世に問うつもりなど毛頭ないし、少なくとも、私が肉を食べなくなったのは、
興味本位、健康本位で、さらに食べなくなったら肉の匂いに耐えられなくなったとい
うだけのことなのだが、それにしても・・・・・・。
 すぐ隣では、羽を縛られ、首を掻き切られたニワトリが、小さなドラム缶に投げ入
れられ、バタバタともがいている。最期の雄叫びを上げながら暴れれば暴れるほどド
クドクと血が流れる。そうしたニワトリがびくともしなくなってから、時にはまだば
たつかせている足を無理やり切り落とすと、羽ごと皮をむしり取り、わずかに残った
羽も丁寧に取り除かれた。
 ピンク色の肉が露わになると、今度はもも肉、胸肉、手羽などの部位が切り取られ、
砂肝も取り出される。まな板代わりの木の切り株は血で汚れ、カラスやハエが捨てら
れた内臓に群がる。なにもこのような全てを見なくてもよかったのに、野菜しか食べ
なくなってようやく、こうした過程も見ておくべきだと思うようになった。料理をす
るときにはあくまでも食材のひとつでしかなかった肉類が、実際には生きた動物たち
から切り取られるのを目の当たりにしては、食事の選択肢から当分肉を省くことにな
りそうだ。 
 消費者が自ら処理をすることなく安心して肉を食べられるのは、肥育農家で育てられ
た動物たちを食肉へと変える人々が存在するお陰なのだということも忘れがたいこと
だった。彼らの仕事ぶりは大変見事なものだったし、そのお陰で我々はおいしく肉を
いただくことができるのである。これらを承知でもなお食べたければ、それこそ本当に
感謝して食べればいいと思うけれど、今まで十分おいしい肉は食べた。それでもう
満足した。

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責任感ある方だなあと思いました。
私はこのような情景がたとえ映像であっても直視できません。
見ることすらできないのに、自分で手を下すなんてもってのほか。
この文章を転記するだけでも辛いくらい。

今まで自分に都合の悪いことは考えないようにして、
牧場などで見たときにはかわいいかわいいと言っておきながら、
自分の手は汚すことなく、牛や豚や鶏やその他の動物たちが
辛い怖い痛い思いをして肉になってしまった途端、
食材の一つとしてしか見ていなかった自分のずるさに悲しくなります。

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